黛ジュンさんの現在の年齢は68歳
黛ジュンさんは元紅白歌手なんですね。
そんな、黛ジュンさんに先輩歌手とトラブルがあったとの噂が。
離婚や婚約破棄されたの経験もあるんだとか
黛ジュンさんの兄は作曲家らしいのですが誰なんでしょう
気になったので、黛ジュンさんについて調べてみました。
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黛ジュン 経歴
名前 黛ジュン
本名 渡邊順子(わたなべ じゅんこ)
生年月日 1948年5月26日(68歳
身長 160cm
出身 東京都調布市
所属 オフィス・マユズミ
黛ジュンさんは裕福な家庭ではなかったようです、借金取りが来ることもあり、その時は兄と押入れに入っていたんだとか。
黛ジュンさんは品川区立冨士見台中学校卒業後、本名の渡邊順子の名前で、米軍キャンプをジャズ歌手として回る活動を始めます。
その後、1964年、黛ジュンさんが16歳の時、本名で歌手デビューしシングルを3枚理リリースするもヒット曲は出ず、下積み生活。
1967年、黛ジュンさんが18歳の時、石原プロモーションに入り、「黛ジュン」の芸名に。
同年、「恋のハレルヤ」で再デビュー
「恋のハレルヤ」で注目を集め、翌年
1968年5月、「天使の誘惑」が大ヒットし、同年10月、「夕月」もにヒットし、第10回日本レコード大賞を受賞。
この時、黛ジュンさんは19歳。
さらに、同曲を主題歌にした映画「天使の誘惑」「夕月」に主演。
女優としても人気に。
1967年~1970年まで紅白歌合戦に4回連続出場。
黛ジュンの最初の結婚と離婚
黛ジュンさんは1970年にミュージシャンの江藤勲さんと結婚。
黛ジュンさんは、結婚と同時にい引退しています。
江藤勲さんは1943年10月16日生まれ。
年齢は黛ジュンさんの5つ年上
結婚時は、
黛ジュンさんは22歳
江藤勲さんは27歳
江藤勲さんは1960年代から1970年代に活躍した、ベーシストでスタジオミュージシャンでした。
17歳のときにハワイアン・バンドのメンバーとしてプロ・ベーシストとして活動を始め、グループサウンズ「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」の初期メンバーに、その後多くの作曲家に指名される、スタジオミュージシャンになったそうです。
1973年、離婚
結婚生活は約3年
離婚の理由は、江藤勲さんの家庭内暴力だったそうです。
黛ジュン 芸能界復帰
黛じゅんさんは、1973年の離婚後、芸能界に復帰。
しかし、以前のような人気は得られず、低迷が続きます。
1980年、レコード会社をCBS・ソニーへ移籍
同年2月、「風の大地の子守り唄」、10月「男はみんな華になれ」が久振りのヒット。
ヒットした要因は、「風の大地の子守り唄」が映画の主題歌に、「男はみんな華になれ」がCMのイメージソングになったことのようです。
レコード会社をソニーに移籍したことで、タイアップが付いたようですね。
黛ジュンの2度目の結婚と離婚
黛ジュンはドラマーの石田秀雄さんと2度目の結婚をします。
しかし、1994年に離婚
黛ジュンさんが48歳頃です。
離婚の理由についての情報はありませんでしたが、離婚した1994年に石田秀雄さんは芸能事務所を立ち上げているようです。
一時期は10人以上のタレントが所属していたようですが現在WEBサイトも消えており、現在の会社が稼動しているかは分かりません。
黛ジュン 婚約破棄
黛ジュンさんは2001年、53歳頃、作詞家の里村龍一と婚約を発表し話題になりました。
里村龍一さんは 1949年2月20日生まれ
生まれた年は、黛ジュンさんが1948年ですが、学年で言えば、同級生です。
里村龍一さんは北海道出身で、作曲家の猪俣公章さんの弟子であったようです。
島倉千代子さん、森進一さん、氷川きよしさんなど多くの演歌歌手に楽曲を提供しています。
しかし、2ヵ月後婚約破棄
理由は、里村龍一さんが婚約相手の黛ジュンさんについて、知り合いのイタコに相談し、
「二人の相性が最悪。5年後には歌を辞めるように」
と言われたことで、里村龍一さんから婚約破棄をされたんだそうです。
黛ジュンさんは気の毒過ぎですね。
イタコって死者の魂を降臨させる人かと思ったら占いみたいなこともするんですね。
イタコについてちょと調べてみたら、青森や秋田での呼び方のようです。
他の地方ではミコサマとかオガミサマとか他にも呼び方があるようです。
でも、占いで婚約破棄されるとか。
里村龍一さんこういうことをすごく信じるタイプの人だったようですね。
ちなみに、里村龍一さんは、2003年に演歌専門のレコード会社を立上げてオーナーをしているそうです。
2011年には北海道の釧路に事務所と自宅をたてたんだとか。
これも、相談したんでしょうか。
黛ジュンが喉の病気で活動休止
黛ジュンさんは2006年に、声の病気にかかり歌が思うように歌えなくなってしまいます。
原因は不明だったそう。
何とか歌っていた黛ジュンさんですが、2011年1月には歌えない状況になり、歌手活動の休止も考えていたようです。
しかしその後、喉のアレルギーの原因が分かり治療が可能になり、治療を開始。
喉は順調に回復し2012年にはほぼ完全に回復しました。
治療中の2011年5月にも復帰コンサートが行っており、原因が分かったことでかなりの速さで回復したようです。
2011年1月には作曲も始め、演歌歌手の長山洋子さんに楽曲提供をし作曲家としてもデビューしています。
黛ジュンが先輩歌手とトラブル?
黛ジュンさんは2011年1年喉の病気が悪化し
活動休止を考えていた頃、報道で、
昨年には、尊敬する先輩歌手とトラブルになり、症状が悪化。関係者は「全面的に黛に問題があったが、かなり厳しい言い方をされたらしい。ストレスからびらん性の胃炎になったほどで、連日泣いてばかりで落ち込んでいた」と話している。
と書かれていました。
もちろん、名前は書かれていませんし、関係者の発言で黛ジュンさん本人が語ったわけではないようですが、一部では「誰だ」話題になりました。
梓みちよさん、などの名前が挙がっていましたが、真相は分かりませんでした。
黛ジュンの兄は作曲家?
黛ジュンさんの兄は作曲家の三木たかしさん。
三木たかしさんは、1945年1月12日生まれ
2009年5月11日、64歳の若さで亡くなっています。
死因については発表されていません。
ただ、2006年に喉頭がんを患っておりそれが原因ではないかとの報道がありました。
三木たかしさんは大変多くの楽曲提供を行っていて、シングルの総売り上げ枚数は約2000万枚で1983年2月にリリースされた、わらべの「もしも明日が…。」は97万枚を記録。
三木たかしさんは妹の黛ジュンさんにも曲を提供していて、ヒット曲1968年9月リリースの「夕月」は66万枚を売り上げ、三木たかしさんの売り上げた曲ランキングでは、石川さゆりさんに提供した曲の「津軽海峡冬景色」に続く5位になっています。
三木たかしさんが作曲家デビューしたのは、1967年でまだ新人でした。
通夜には1200にんが別れに訪れ、親族代表は黛ジュンさんが務め
「3月の始め頃に余命の告知を受けて覚悟はしていたんですが、あまりにも突然で、まだ受け止めることができません」
と涙ながらに語りました。
黛ジュン 最後に
黛ジュンさんは自身のヒット曲「天使の誘惑」のB面に収録されていた「ブラック・ルーム」をアレンジし、2016年にセルフカバーしてリリースしています。
この曲は、兄の三木たかしさんが初めて妹の黛ジュンさんに提供した楽曲です。
黛ジュンさんは思いがあるんでしょうね。
4月7日に黛ジュンさんは爆報フライデーに出演しますね。
黛ジュンさんは不倫の経験もあるそうで恋愛遍歴を語るそうです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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