薬師丸ひろ子の結婚、玉置浩二との離婚理由や子供、高校や大学などの学歴や経歴

女優

薬師丸ひろ子さんは東京都出身の女優。

薬師丸ひろ子さんは玉置浩二さんと結婚していましたが、離婚理由は?

子供は?

高校や大学、学歴、経歴は?

気になったので、薬師丸ひろ子さんについて調べてみました。

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薬師丸ひろ子と玉置浩二の離婚理由や子供は?

薬師丸ひろ子さんと玉置浩二さんは1991年1月に結婚しました。

玉置浩二さんは1958年9月13日生まれで、薬師丸ひろ子さんの6歳年上。

結婚した時、薬師丸ひろ子さんは26歳でした。

玉置浩二さんは「安全地帯」のボーカルで「ワインレッドの心」などで知られるミュージシャン。

薬師丸ひろ子さんと玉置浩二さんの馴れ初め・出会いは、1987年10月に薬師丸ひろ子さんがリリースしたシングル「胸の振子」の作曲を玉置浩二さんが担当したこと。

このことがきっかけで、交際に発展し結婚。

挙式はハワイ・マウイ島で挙げました。

しかし、結婚7年目の1998年6月に離婚。

離婚理由は薬師丸ひろ子さんの家族と玉置浩二さんの不和などと言われているようです。

一部の報道では、

「婿養子になってほしい」

との薬師丸ひろ子さん家族の主張を、玉置浩二さんが拒否していたことが理由とさています。

薬師丸ひろ子さんと玉置浩二さんは結婚後、薬師丸ひろ子さんの両親と同居をしていたそうです。

離婚は、薬師丸ひろ子さんの34歳を祝う芸能関係者約100名が招待されていた誕生パーティで玉置浩二さんが、

「今日で別れます。今まですごく楽しかった。長い間話し合って、生き方を別々にすることにしました。心はすごく通い合っていますし、これからも通じあうでしょう」

と発言。

薬師丸ひろ子さんも笑顔で、

「そういうことです。これから届けを出します」

と発言し離婚が発表されました。

薬師丸ひろ子んと玉置浩二さんの間に子供はいません。

薬師丸ひろ子の再婚は?

薬師丸ひろ子さんが玉置浩二さんと離婚したのは34歳の時。

その後、再婚はしていません。

しかし、熱愛の報道はあるようです。

2歳年上のNHKカメラマンと長く交際していると報じられています。

2015年で交際期間は約15年。

2001年に薬師丸ひろ子さんが出演したNHKのドラマ「コウノトリなぜ紅い」の撮影を担当したことで出会ったそうです。

「彼は職人気質な面もあるんですが、一方で優しい性格を持ち合わせて、それが薬師丸さんが惹かれた理由だったようです」

引用 https://www.news-postseven.com/

薬師丸ひろ子さんが両親と住む家に招くようになり、2004年には半同棲状態になったといいます。

この頃から薬師丸ひろ子さんの両親は栃木・那須の別荘で暮らすようになったそうです。

両親が薬師丸ひろ子さんの再婚を考えての行動だったされています。

2020年6月の報道では、交際は継続しており、都会から車で2時間の栃木に交際中の男性と移住ししているようです。

薬師丸ひろ子さんの両親が住む場所からも近いといいます。

薬師丸ひろ子の高校や大学などの学歴・経歴

名前   薬師丸ひろ子
生年月日 1964年6月9日
身長   154.5cm
出身   東京都港区北青山

薬師丸ひろ子んさんの兄弟は姉が1人。

小学校時代は活発な子供で、学級委員長なども務めていたそうです。

中学は港区立青山中学校

中学時代は合唱部に所属。

高校は都立八潮高校

八潮高校は東京都品川区にある男女共学の公立高校。

現在の偏差値は43

タレントの関根勉さんや、女優の二階堂ふみさんも卒業生です。

薬師丸ひろ子さんは中学3年の時には、高校受験のため女優業は休止しています。

大学は玉川大学文学部英米文学科を卒業

現在の偏差値は50

薬師丸ひろ子さんは、高校受験の時と同様に、大学受験のため高校3年生の時は1年間仕事を休んで受験勉強したといいます。

大学入学後も仕事と学業を両立させ留年することなく卒業しました。

薬師丸ひろ子の経歴

1978年、13歳の時、姉が応募した角川映画「野性の証明」の長井頼子役に2224人の中から選ばれ合格。

薬師丸ひろ子さんは芸能界に興味はなく、オーディションも乗り気ではなかったといいます。

薬師丸ひろ子さんは、2次審査通過後、角川事務所に呼ばれ、今回のオーディションは年齢が障害となって不合格と伝えられたそうです。

役柄の年齢設定は8歳で、薬師丸ひろ子さんは当時13歳でした。

しかし、今後芸能活動する気持ちはないかと角川春樹社長から尋ねられたといいます。

薬師丸ひろ子さんはこのことで、落選は決定してると思い込んで、最終オーデションにに臨みましたがが結果は合格。

審査は年齢条件に合致した候補者を争ったそうですが、薬師丸ひろ子さんの将来性を見込んだ角川春樹社長の強い推薦で合格したそうです。

映画「野性の証明」は興行収入21億8000万円、邦画年間興行ランキング1位。

薬師丸ひろ子さんは女優を続ける気持ちはなかったっそうですが、事務所に説得され、仕事はは放課後と夏休みと冬休みだとの条件で仕事を続けたといいます。

1980年7月公開の映画「翔んだカップル」に鶴見真辰吾さんと共に主演。

鶴見辰吾さんと薬師丸ひろ子さんは幼稚園・小学校の同級生の幼馴染だったそうです。

1981年12月、主演映画「セーラー服と機関銃」が公開。

同年11月には歌手としてデビュー曲「セーラー服と機関銃 」をリリースしています。

映画「セーラー服と機関銃」の中で機関銃を乱射するシーンで有名な「カイ・・・カン」のセリフが話題になりました。

興行収入47億円の代ヒット。

映画公開2日目の大阪での舞台挨拶には徹夜組を含めた約8,000人のファンが上映3館に殺到したため放水車を伴う機動隊まで出動し、舞台挨拶も上映も中止。

その騒動は翌日のスポーツ新聞のみならず、一般新聞の社会面トップ記事にもなったそうです。

以降、「探偵物語」「里見八犬伝」「里見八犬伝」など多数の角川映画で主演を務めどの映画もヒットしましたが、内心ではずっと女優を辞めたいと思ってたそうで、角川春樹社長に辞めたいと意思と伝えるたびに、

「いつ辞めてもいい。でも、もったいないぞ」

とその都度なだめらていましたが、1985年3月に角川春樹事務をに独立。

一度仕事を離れ将来を考える時間を作ろうとしますが、引退の報道が流れ、大勢の取材陣が家に直接殺到、さらには父親の会社にまで取材がくるなどしたため、仕方なく取材を断る為の窓口として個人事務所を設立。

薬師丸ひろ子さんは引退も考えましたが、考え抜いた末、自身に撮影現場で「飽きない、冷めない、慣れない」の三原則を自らに課し、女優として再出発を決意。

以降も映画を中心に活躍。

1989年にはライオン「ソフトインワン」のCMの台詞「ちゃんリンシャン」が話題になり、 第29回 ACC CM FESTIVAL テレビCM部門優秀賞も受賞しました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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