間寛平さんは高知県出身のお笑い芸人。
経歴や学歴は?
妻はどんな人なんでしょう?
息子は俳優で娘もいる?
マラソンはいつから?
間寛平さんのがんの治療は?
気になったので、間寛平さんについて調べてみました。
間寛平の学歴・経歴
名前 間寛平
生年月日 1949年7月20日
出身 高知県宿毛市
身長 164cm
所属 吉本興業
間寛平さんは高知県宿毛市出身。
実父は印刷店に勤務していましたが、間寛平さんが生まれる1ヶ月前に患っていた結核が再発し23歳の若さで他界。
母親は間寛平さんが4歳の時に再婚し、、一家で愛媛県宇和島市に転居。
義父は木材関係の仕事をしており、我が子同然に育ててくれたといいます。
母親の再婚後、6歳下の弟が生まれました。
木炭の需要が減少し林業での生活が難しくなり、間寛平さんが12歳の時に大阪府大阪市に引越しました。
実父の存在はこの頃に知ったといいます。
小学校は宿毛市楠山小学校に入学し、大阪市立住吉川小学校を卒業。
中学は大阪市立加賀屋中学校
高校は東大阪大学柏原高校(偏差値40)
柏原高校は私立の男子校。
高校時代は野球部に所属。
柏原高校は甲子園に出場経験があり、プロ野球選手を複数輩出した野球の強豪校。
間寛平さんの時代は野球部員は150名以上在籍しており、レギュラーにはなれませんでしたが、厳しい練習には3年間耐えたそうです。
間寛平さんは高校卒業に上京。
当時は、石原裕次郎さんに憧れて、歌手になりたかったそうです。
間寛平 お笑い芸人になる
間寛平さんは上京後、キャバレーなどで働きながら、歌手を目指しますが挫折。
大阪に戻りで仕事を転々としていたそうです。
お笑い芸人を目指したきっかけは、交通事故で入院した時、聞いたラジオの影響でなんとなくお笑いをやってみようと思ったそうです。
当時やっていた仕事はタイル張りの仕事で、毎日親方に怒られて、仕事への意識が変わりつつあった時期だったことも影響しているかもしれないと話し、どうしてもお笑いがやりたいという気持ちはなかったといいます。
1969年20歳の頃、お見舞いに来た友人の紹介で、劇場に出入りするようになりました。
鳳啓助に弟子入り志願しますが、すでに弟子がいたため断られ、すっとんトリオに弟子入り。
すっとんトリオに弟子入り後、新世界のジャンジャン横丁にあったストリップ劇場の「温泉劇場」で修業し、司会や幕間のコントに出演し芸を磨きました。
1970年、喫茶店のアルバイトをしていた時、店主の紹介で吉本興業に所属し、吉本新喜劇の研究生になりました。
間寛平さんはすぐにアドリブで放つギャグを武器に頭角をあらわし1974年、入団4年目の24歳にして吉本新喜劇の座長に昇格。
1975年には「ひらけ!チューリップ」で歌手デビューしました。
「ひらけ!チューリップ」は累計で100万枚超の大ヒット。
間寛平さんは人気芸人になりましたが、生活は安いラブホテルに寝泊まりするなど根なし草の状態で、
「めちゃくちゃな生活だった」
と話しています。
26歳の時、お人好しの性格と無知から、先輩芸人に騙され保証人になったことで、約5000万円の借金を背負ってしまいます。
逆転を狙い困った時や追いつめられた時にに放つ一言自分の持ちギャグの「ア~~~メマ!!」から 1986年にアメマバッジを10万個作成。
製作費でさらに、6000万円の借金をしました。
アメマバッジの原価は634円で1500円で売り、全部売れれば1億5000万円になり計算だったといいます。
しかし、このバッジはなった全く売れず、前の借金と合わせて総額1億円以上の借金を抱えてしまいました。
アメマバッジは、バッジを製作した会社から費用の不払いのため訴えられて裁判沙汰にっています。
その後、1989年に東京に進出。
東京では萩本欽一さんに師事し、地道に芸人として働き16年かけて借金を完済ました。
間寛平の妻
間寛平さんが結婚したのは1978年3月。
妻の名前は光代さん。
光代さんは元吉本新喜劇の研究生で、先輩後輩として出合ったそうです。
出合った当時、光代さんは17歳。
「夜は危ないから…」
と新喜劇の稽古後に、間寛平さんが光代さんを車で送っていったことがきっかけで親しくなったそうです。
当初は妹のように可愛がっていましたが、当時光代さんは萩本欽一さんの超が付く大ファンで、ある日、光代さんが萩本欽一さんが結婚していることを知り寝込んでしまったそうです。
それを見て心配になった間寛平さんは、会社からの「もう、結婚せえ」との勧めもあり結婚。
妻の光代さんは結婚当時20歳。
間寛平さんは28歳でした。
間寛平の息子は俳優?娘は?
間寛平さんの子供は2人。
息子と娘です。
長女の美代さんが1979年
長男の慎太郎さんが1981年
に誕生しました。
息子の慎太郎さんは「息子 俳優」で検索されているようですが、職業はシンガーソングライター。
よしもとミュージックに所属しています。
2006年にシングル「淋しん坊の絵描きさん」で歌手デビュー。
ライブを中心に活動していますが、2014年頃から俳優としても活動しており、2018年にはNetflixで配信されたドラマ「Jimmy~アホみたいなホンマの話~」で父親の間間平役で出演しました。
長女の美代さんは2006年2月に初孫を出産し、間寛平さんは56歳で「おじいちゃん」になりました。
間寛平のマラソンはいつから?
間寛平さんがマラソンを趣味で始めたのは36歳の1985年頃だといいます。
きっかけは、2日続けて死に長い距離のマラソンを走っている夢を2日続けて見たことだといいます。
マラソンの夢を見たことを池野めだかさんに告げると、
「2日見る夢は正夢言うからなぁ、寛平ちゃん、いっぺん走ってみたらどうや」
と言われてマラソンを始めたそうです。
マラソンに初挑戦したのは1986年で、青梅マラソンの30キロのコースに参加し2時間26分で完走しました。
1992年には24時間テレビのチャリティーマラソンの初代走者になり200キロを完走。
フルマラソンでは1998年にラスベガスマラソンで「3時間8分42秒」という市民ランナーとしては驚異的なタイムを記録。
246kmを走破するギリシャのスパルタスロンは3回完走しています。
2007年には能活動を3年間休止して世界一周マラソンに挑戦する意向を表明。
2008年12月17日に大阪のなんばグランド花月をスタート。
2011年1月21日に2年1か月のアースマラソン4万1000kmに及ぶ長い旅を終え、午後7時43分に大阪城音楽堂を第一終着地としてゴールインしました。
間寛平のがん治療は?
間寛平さんは2010年1月4日、アースマラソン中に立ち寄ったトルコで、定期的に行っているメディカルチェックを受けたところ、前立腺がんを発症していることが判明。
同月13日にがんを公表し、治療を行いながら『「アースマラソン」を続けていくことを発表しました。
3ヶ月後の3月頃にトルクメニスタン到達後、病状が悪化する前に放射線治療を受けるために一時中断。
アメリカに引き返し、サンフランシスコでがん治療(ホルモン療法)を行いました。
「アースマラソン」は6月18日に再スタートています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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