林マヤさんは長野県出身のモデル。
学歴や経歴は?
モデル時代の活動は?
結婚して旦那や子供がいる?
現在は茨城県守谷市に住んでいる?
気になったので、モデルの林マヤさんについて調べてみました。
林マヤの学歴・経歴
名前 林マヤ
生年月日 1958年2月23日
出身 長野県上田市
身長 171cm
所属 アップフロントクリエイト
林マヤさんは長野県上田市出身。
本名は大内理枝(おおうち りえ)
実家は兼業農家。
田んぼやりんご園をやっていたそうです。
2人姉妹の妹。
小学校は上田市立神科小学校
中学校は上田市立第五中学校
高校は長野県東御清翔高校
大学には進学していません。
林マヤさんは小学生の時から高身長だったそうです。
長野県東御清翔高校は長野県東御市にある男女共学の県立高校。
現在の偏差値は42
林マヤさんが通っていた時には、長野県東部高校という名称でした。
林マヤさんは子供の頃はおとなしい目立たない子でしたが、高校に入学後に突如ヤンキーになったそう。
林マヤさんは天然パーマでしたが、入学早々に先生に「お前、パーマかけてるだろう!」よ一方的に怒られ、あまりの理不尽さにキレてしまいまして、怒りのあまりそのままパーマ屋さんへ直行。
アフロヘアのようなパーマをかけて、そこからヤンキー時代に突入したそうです。
スカートは床に引きずるほど長くしていて、歩いた後は地面を引きずって跡がつくから、「ナメクジの理枝(本名)」と呼ばれてたんだとか。
林マヤさんは高校卒業後の1977年、仲よしの同級生と上京しして就職。
しかし、仕事よりも都会の楽しさに夢中になってしまい、就職先の寮では門限破りの常習犯。
2週間で退社したそうです。
退社後は、荻窪の風呂なしのアパートに住み、アルバイトをして生活していたといいます。
ある日、毎日通っていた銭湯で偶然に高校の同級生とばったり再会。
同級生は高校時代の友人とは別人のようで、とっても垢抜けていてステキな大人の女性になっていました。
話してみると、同級生は東京でモデルをしていて、2DKのマンション暮らしていて、銭湯に来たのは工事のためにお風呂が使えなかったからだったそうです。
その時、同級生に、
「マヤもきっとモデルになれるよ、背も高いし。」
と言われモデル事務所を紹介され所属し、モデル活動を始めました。
林マヤのモデル時代
高校の同級生の友人の紹介でモデル事務所に入った林マヤさんでしたが、3年間、売れませんでした。
当時、林マヤさんはまだマイナーだったパンクファッションに憧れていたので、事務所に入ってもヘアスタイルは刈上げ。
メイクもマニキュアも黒っぽく、モデル撮影会に参加しても。林マヤさんの周りにはアマチュアカメラマンは集まらなかったそうです。
撮影会で人気ながあったのは、女の子らしい顔で、ロングヘアー、巻き髪、フリフリのワンピースなどのモデル。
林マヤさんはファッションショーのオーデションに行っても、
「男のオーディションは明後日だよ」
と言われたこともあったといいます。
林マヤさんはモデルの世界に自分の居場所を感じなくなり、パンクの本場ロンドンに行くことを決意。
貯めた30万円を持って、パンクの本場のロンドンに向かいました。
林マヤ 偶然の出会いから人気モデルに
林マヤさんの購入したロンドン行きの格安チケットはパリ経由でした。
パリで観光して、おしゃれなカフェでカフェオレを飲んでいると、
「君、おもしろい顔してるね。僕とフォトしない?」
と男性に声をかけられたそう。
日本のモデル撮影会では人が集まらなかった林マヤさんはパリでは違うなと思いつつ、
「お金くれるの?」
聞いたそうです。
話をしてみると、その男性はファッション雑誌『マリ・クレール』のカメラマンでピーター・リンドバーグという人でした。
林マヤさんは当時は知りませんでしたが、彼は世界的に知られる超有名フォトグラファー。
旅費稼ぎとパリでの記念のつもりで引き受けましたが、その撮影はとにかく楽しかったといいます。
撮影のあまりの楽しさに、1ヶ月パリに滞在しモデル事務所にも所属。
ファッション雑誌『マリ・クレール』のフランス版に日本人として初登場した、林マヤさんの写真は評判を呼び、ショーのオファーももらい、パリコレにもデビュー。
多くのショーに出演しました。
1991年3月、ミディ・レコードからジャズアルバム『MAYA』をリリースして歌手デビューもしました。
1996年、資生堂エリクシールのCMに出演したことで注目を集め、日本でもモデルの仕事が舞い込み、ファッション雑誌『anan』には毎号トップモデルとして登場。
日本とパリを往復する生活を10年間続けました。
林マヤ 1億円の借金
トップモデルとして華やかな生活をし、
「モデル時代は、1万円以下は小銭でした。」
と話す林マヤさん。
当時のランウェイ1回のギャラはトップクラスで100万円。
ショー開催期間は、一日に何度もランウェイを歩いていましたが、年収はまったく把握していなかったと話します。
クレジットカードも使い放題で飲み代にもいくら使ったわからないといい、買い物も選ぶのが面倒になり、
「このへんのラックを送っておいて」
という買い方だったそう。
移動は常にファーストクラス。
高価なベッドを買って、なんとなく違うと感じ、翌日に買い換えたりしたこともあったといいます。
借金を抱えた理由は、ショーのBGMでかかっていたジャズにハマって、モデルを辞めミュージシャンになったこと。
CDを出しても売ませんでしたが、ライブでもスポンサーは付かず全部自腹でしたが、ライブ会場はいいところを押さえ、ミュージシャンも超一流。
1986年に結婚した旦那をプロデューサー兼マネジャーにして、すべてにお金に糸目をつけませんでした。
ジュエリーをアメリカまで買いに行ったり、ライブのパンフレットを作るために海外までファーストクラスで飛んで撮影をしたりと浪費癖はモデル時代と変わえいませんでした。
気がつくと、自宅の電気、ガス、水道の光熱費が止められたそうです。
その時、はじめて借金に気が付き、その額は1億円。
この世から逃げ出したいと思い、旦那と2人で富士山に行ったこともあったといいます。
当初はライドが邪魔をして働けませんでしたが、借金と向き合うことを決意。
それから借金をを返すために夫婦で働き、1日いくつものバイトを掛け持ち。
林マヤさんは朝はお弁当屋さん、お昼は喫茶店、夜はスナック。
旦那は日中は肉体労働を、夜中は2人でチラシのポスティングをしたそうです。
ボタン付けなどの内職もしたといいます。
やがて、タレントとしての仕事も入るようになり、アルバイトと並行しながら17年かけて借金を完済しました。
林マヤの旦那や子供は?
林マヤさんは離婚歴があります。
最初の結婚は1979年頃。
1985年頃に離婚したようです。
現在の旦那は笛風呂タオスさん。
本名は大内流篤さん。
職業はカメラマン。
結婚したのは1986年。
1958年生まれで東京出身、年齢は林マヤさんと同い年。
笛風呂タオスさんは元会社員で林マヤさんの勧めでカメラマンになりました。
「結婚後、僕は会社を辞めて、彼女の勧めもあって、ファッションフォトグラファーになったんです。」
引用 https://dot.asahi.com/
林マヤさんのマネージャーとして、撮影現場でプロの技を盗んだといいます。
トップモデルの林マヤさんも年齢を重ねていくと、家庭的なキャラクターが求められる仕事が増えていき、電メーカーから年間800万円という破格のオファーが来たことがあったそうです。
林マヤさんはその仕事をエプロンが嫌という理由で拒否。
その時、笛風呂タオスさんは、
「僕もまたバカでね。そんな彼女を『かっこいい~!』って(笑)。」
引用 https://dot.asahi.com/
と思っていたといいます。
借金を抱えた後も、33歳から17年林マヤさんと共に働き、17年後の50歳の時、借金を完済しました。
現在、笛風呂タオスさんはカメラマンだけでなく、野菜文化研究家としても活動しています。
林マヤさんに子供がいるという情報はありませんでした。
林マヤは現在、茨城県守谷市に移住
林マヤさんと旦那の笛風呂タオスさんは、謝金完済後の2009年から茨城県守谷市に移住し農業をしています。
最初は身体と心の健康を取り戻すために始めた野菜作りだったそうです。
気がつくと農業にハマり、現在は2400平方メートルの畑で、年間約120種のレアべジ(珍しい野菜)を作っています。
最初の3ヶ月ぐらいは、東京育ちだった旦那の笛風呂タオスさんは「都落ちだ」と落ち込んでいたんだとか。
そんな、笛風呂タオスさんも現在では野菜文化研究家の肩書きも持ち、身体に美味しい野菜を追求すしていると話しています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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