夏木マリの結婚歴や旦那の斉藤ノヴとの馴れ初めは?子供は息子で何人?

女優

夏木マリさんは東京都出身に女優、歌手。

経歴や学歴は?

結婚歴や旦那の旦那の斉藤ノヴとの馴れ初めは?

子供は息子でコーヒー店を経営?

気になったので、女優、歌手の夏木マリさんについて調べてみました。

夏木マリの学歴・経歴

名前   夏木マリ
生年月日 1952年5月2日
出身   東京都豊島区
身長   163cm
所属   O型

出生名は中島淳子(なかじま じゅんこ)。

父親は貿易会社の茶谷産業に勤務、輸出品の開発の仕事をしていました。

日本人離れした顔立ちから「ハーフ」とも噂されるようですが、父親も母親も日本人でハーフではありません。

父親、母親、弟の4人家族、生活は比較的裕福で、幼少期はピアノを習っていました。

小学校は板橋区立板橋第九小学校に入学ましたが、小学校3年生の時に埼玉県大宮市(現・さいたま市大宮区)に引っ越して、大宮市立三橋小学校に転校しています。

母親が洋服が大好きは人で、毎日いろんな服を着せられていたことから、転校後は「七面鳥」とあだ名をつけられいじめられたといいます。

小学生に時には合唱部に所属していました。

中学校は大宮市立三橋中学校を卒業。

現在はさいたま市立。

中学校でも合唱部に入ろうと思っていましたが、なかったため自分で音楽サークルを立ち上げています。

高校は豊島岡女子学園高校に進学。

東京都豊島区東池袋に所在する私立の女子校で、現在の偏差値は72。

2022年度から系列の豊島岡女子学園中学校と完全中高一貫校なり、現在は高校での生徒募集をありません。

高校時代は、グループサウンズの追っかけをやっていて、自ら「ブクロの淳」と名乗っていたそうです。

音大を目指して、受験対策の予備校に通っていた高校3年生の時にスカウトされ、音大受験を辞め芸能界入りしました。

夏木マリ 絹の靴下がヒット

1971年8月、19歳の時に本名の中島淳子名義で「小さな恋」をリリースて歌手デビュー。

アメリカのロック歌手・ジャニス・ジョプリンのような曲を希望していましたが叶わず、正統派アイドルとしてのデビューとなりました。

その後、2曲目も出しましたが、まったく注目されず、キャバレー回りを経て、1973年6月に夏木マリに改名し「絹の靴下」リリースし再デビュー。

芸名の夏木マリは再デビューが6月で「夏に決めよう」から「夏木マリ」になったそうです。

中島淳子時代とは違った、、妖艶な振り付けやフィンガー・アクションが盛り込まれて、同曲は大ヒット。

急にテレビの歌番組など仕事が増え、疲労から、低色素性貧血を発症して3か月間入院しました。

1974年に「しあわせの一番星」の夏木マリ 役で映画デビュー、1979年には「Gメン’75」(TBS)デドラマでビュー。

1985年には映画「北の螢」、「里見八犬伝」の演技で、

第8回日本アカデミー賞・優秀助演女優賞

を受賞、2002年にも映画「ピンポン」で同賞を受賞しました。

夏木マリ結婚歴や旦那の斉藤ノヴとは?

夏木マリさんの結婚歴は1度です。

2011年5月に、2歳年上のパーカッショニスト・音楽プロデューサーの斉藤ノヴさんと結婚。

59歳の時の結婚で初婚でした。

斉藤ノヴさんさんは再婚で、前妻とは死別しているようです。

斉藤ノヴさんは1970年、デュオ「シモンサイ」でデビュー。

1972年からスタジオ・ミュージシャンとして活動し、1974年以降は松任谷由実さんのアルバムには欠かせない存在のスタジオ・ミュージシャンとして参加。

1985年~1997年には中島みゆきさんののツアーにバンドマスターとして参加。

他にもサザンオールスターズ、TUBE、稲垣潤一さん、B’zなど多くのミュージシャンの楽曲に参加しています。

夏木マリと旦那の斉藤ノヴとの馴れ初めは?

夏木マリさんと斉藤ノヴさんは2006年にブルースバンド「GIBIER du MARIE」を結成。

このことが馴れ初めで、夏木マリさんからのアプローチで交際がスタートし、2007年には交際中であることを公表し、「フランス婚」と表現し、籍を入れることにはこだわらないと明かしていました。

事実婚を続けていましたが、2011年の東日本大震災を機に「人を愛する意味、夫婦、家族の絆」を考えて、結婚することを決めたそうです。

夏木マリの子供は息子で何人?

夏木マリさん子供は、息子が2人のようですが、夏木マリさんの実子ではなく、斉藤ノヴさんの連れ子です。

次男には3人の子供がいるといい、夏木マリさんが結婚した頃にちょうど子供が生まれ、お宮参りに行き、写真館で記念写真を撮った時、

「はい、おばあちゃん、赤ちゃん立ててください!」

と言われ、子供を産んだことがない夏木マリさんは全然おばあちゃんの感覚がなく、自分のこととは気がつかなかったそうです。

「私も30代は本当に悩みましたよ、女としてね。」

引用 https://gendai.media/

自分の子供については30代の頃は悩んだといい、子供には関わりたかったことから、途上国の子供3人に2007年からチャイルド・スポンサーとして支援を始めたそうです。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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