田原俊彦の結婚、嫁や娘の大学や中山美穂との関係、高校などの学歴や経歴

歌手

田原俊彦さんは山梨県出身の元アイドル歌手。

田原俊彦さんの嫁はどんな方なんでしょう?

子供は娘がいてモデルをしている?

中山美穂さんとの関係は?

気になったので、田原俊彦さんについて調べてみました。

田原俊彦の嫁は?

田原俊彦さんが結婚したのは1993年10月。

嫁は元モデルの向井田彩子さん

向井田彩子さんは1971年9月23日生まれ。

田原俊彦さんの10歳年下。

結婚した時、田原俊彦さんは32歳、向井田彩子さんは22歳でした。

向井田彩子さんは神奈川県出身で、CanCamでモデルとして活動していました。

出会いは田原俊彦さんが向井田彩子さんの出ていた雑誌を見て気に入り、知り合いを通じて食をに誘ったようです。

結婚26年目の2019年には別居が報道されています。

別居は3年前からだといいます。

田原俊彦の娘はモデル

田原俊彦子供は2人。

2人とも娘です。

モデルをしているのは長女の田原可南子さん

田原可南子さんは1994年2月14日生まれ。

小学校は公立ですが、

中学は玉川学園中等部に進学。

偏差値は52

高校は玉川学園高等部

大学は玉川大学芸術学部

を卒業しています。

幼い頃から女優に憧れがあり、原宿でのスカウトをきっかけに芸能事務所へ所属し芸能活動を開始しました。

2020年現在はフリーですが2018年までは スターダストプロモーションに所属していました。mp

芸能活動を開始した当初の芸名は「綾乃美花」

2011年、17歳の時、ミスマガジン2011の準グランプリに選出。

当初は田原俊彦さんの娘でありことは伏せていたようです。

2011年10月から放送された名古屋テレビ放送のドラマ「もっと熱いぞ!猫ヶ谷!!」でドラマ初出演。

2012年には映画「悪の教典」に出演。

大学時代は学業に専念し、大学卒業がきまった2015年から芸名を本名の田原可南子に改名しました。

田原俊彦さんは厳しかったそうで、10代の頃は夜帰りが遅いと、携帯を取り上げられたりしたといいます。

しかし、20歳なった瞬間に、

「ここから全部、自己責任です」

「お金も、何もかもやりませんけど、もうここからは何も言わないので、すべてのことは自分の責任で生きていってください」

と言われたんだとか。

田原俊彦さんは娘のその話しについて雑誌のインタビューで、

「僕は全然、タッチしないし、放任です。彼女も、父親には触れない。距離感はしっかり保っています。2世だからっていうの、僕はイヤなんです。成人したら、何をしてもあなたの責任。あなたの人生ですから、責任持って、歩んでくださいと、それは話をしたのかな」

と話しています。

次女も一時長女と同じ事務所に所属していたとの情報がありましたが、活動はほとんどしていなかったようです。

田原俊彦と中山美穂の関係は?

田原俊彦と検索すると「中山美穂」に関連ワードが出てきます。

調べてみると、1989年頃に田原俊彦さんと中山美穂さんは写真週刊誌に「半同棲生活」と報道されていたようです。

交際は1988年頃から始まったとされています。

1992年の正月には2人でハワイ旅行に行き結婚は目前といわれていたようです。

しかし、この旅行のことをお互いの事務所は知らされていなかったそうで、事務所から何か言われたのか、その後は関係が悪くなり同年の3月には中山美穂さんから別れを切り出し、破局したとされています。

田原俊彦の学歴・経歴

名前   田原俊彦
生年月日 1961年2月28日
身長   175cm
出身   山梨県甲府市
所属   ジェイブレイブ

田原俊彦さんは神奈川県横須賀市生まれ山梨県甲府市育ち。

父親は小学校の先生。

4人兄弟の3番目で、姉が2人と妹が1人。

田原俊彦さんが、小学校に入学してすぐ、父親が糖尿病の合併症で他界。

母親の実家がある山梨県甲府市に転居し高校卒業まで甲府で生活しました。

中学時代は野球部に所属しながら、生活を助けるために新聞配達のアルバイトもしていたそうです。

田原俊彦さんが育った場所は農家が多く、家が離れていたため配達するのは時間がかかったといいます。

高校は甲府工業高校

甲府工業高校は山梨県甲府市にある男女共学の県立高校。

現在の偏差値は49

田原俊彦さんは土木科に在籍。

山梨県内では野球の強い高校で知られ、プロ野球選手も複数輩出しています。

6歳で父親を亡くした後は生活が貧しく、芸能界への憧れもあり、

「スターになって母を助けたい」

との思いから、1976年5月、高校に入学しすぐジャニーズ事務所に履歴書を送ったそうです。

しかし、ジャニーズ事務所から連絡がなかったため、夏休みに上京し、アポなしでジャニーズ事務所を訪問。

ジャニー喜多川社長に直談判し入所を認められました。

田原俊彦のデビュー後

高校時代はジャニーズ事務所でのレッスンのため毎週、甲府と東京を往復。

1978年、高校3年の時、テレビ朝日で放送されていた子供向け番組「とびだせ!パンポロリン」に歌と体操のお兄さんの代役で出演しテレビ初出演。

高校卒業後に上京。

1979年10月、TBS系の学園ドラマ「3年B組金八先生」の沢村正治役でドラマ初出演。

中学生役でしたが、田原俊彦さんは高校を卒業して18歳だっため、事務所の意向で年齢を1歳サバ読みしたそうです。

1980年6月、ファーストシングル「哀愁でいと」をリリースし歌手デビュー。

「哀愁でいと」はオリコン週間最高2位、71.9万枚を売上、田原俊彦さんの最大のヒット曲になりました。

1987年8月、フジテレビ系のドラマ「ラジオびんびん物語」に主演・徳川龍之介 役で出演。

1988年4月からは同じ役名で「教師びんびん物語」に出演し、最高視聴率24.9%を記録。

1989年4月からは「教師びんびん物語II」が放送され最高視聴率は31.0%を記録し、2000年、2001年にはスペシャルドラマが放送されました。

田原俊彦 事務所独立

田原俊彦さんは1991年1月に個人事務所「DOUBLE “T” PROJECT」を設立。

この事務所は個人事務所であり、ジャニーズ事務所にも所属していましたが、1994年3月にジャニーズ事務所から独立しました。

独立した理由について、2018年にトーク番組に出演した際に、

「1人でやっていくべきなんじゃないかなっていう思いが強くて。あのときの僕は自由が欲しかった」

と話しました。

別の番組ではジャニーズ事務所を退所時に、ジャニー喜多川さんから餞別として100万円を渡されたと話しています。

しかし、仕事は減り、個人事務所は1996年に倒産しました。

独立ヶ月前の1994年2月、に開かれた長女の誕生発表会見で、田原俊彦さんは

「何事も隠密にやりたかったけど、僕くらいビッグになるとそうはいきません」

と冗談のつもりで発言。

この発言が「ビック発言」とマスコミに大きく取り上げられ、メディアから

「思い上がっている」

猛批判を受けており、このことも影響しているようです。

テレビからは姿を消しましたが、地道に毎年コンサートツアーやディナーショーを全国各地で行い、マスコミにも注目されるようになりました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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