稲川淳二さんは東京都出身のタレント。
学歴や経歴は?
稲川淳二さんが怪談話をはじめたきっかけは?
稲川淳二さんの嫁はどんな人なんでしょう?
子供は息子で病気との噂が?
気になったので、稲川淳二さんについて調べてみました。
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稲川淳二の学歴・経歴
名前 稲川淳二
生年月日 1947年8月21日
出身 東京都渋谷区
身長 167cm
所属 ユニJオフィース
稲川淳二さんは東京都渋谷区出身。
本名は稲川良彦。
父親は会社員。
姉1人、弟1人の3人兄弟。
小学校は渋谷区立長谷戸小学校
中学は渋谷区立鉢山中学校
高校は多摩工業高校(偏差値40)
専門学校は桑沢デザイン研究所
稲川淳二さんは小学生の時、俳優の安岡力也さんと知り合っています。
中学に進学後は疎遠になっていたそうですが、芸能界で再会し、安岡力也さんが亡くなるまで関係は続いたそうです。
小学生の頃の夢は画家で、絵のコンクールで入賞もしています。
多摩工業高校は東京都福生市にある男女共学の都立高校。
稲川淳二さんは高校時代は不良でよくケンカもしていたといいます。
ケンカは強かったといい、
「幼なじみの安岡力也をして、『アイツはキレたらヤバい』と言わしめたほどです」
引用 https://gendai.ismedia.jp/
キックボクサーでもあった安岡力也さんも認める強さだったようです。
桑沢デザイン研究所卒業ではインダストリアル科に在籍。
インダストリアルは工業の意味で、稲川淳二さんは桑沢デザイン研究所で工業デザインを学びました。
稲川淳二さんは当時から、サービス精神が旺盛で、話も面白く、学生時代から「コンパ屋」の異名をとっていたといいます。
1970年に桑沢デザイン研究所卒業。
卒業後はデザイン会社に就職し、浜松市赴任。
ヤマハ、スズキなどの特殊ボディーデザイン担当し工業デザイナーとして働いていました。
工業デザイナー時代には自身の希望だった舞台美術も手がけました。
稲川淳二 舞台俳優として芸能界入り
工業デザイナーとして働いていた稲川淳二さんですが、劇団関係のセットを作るのを手伝っていた時、劇団員がオーディションに行くので、マネージャーとして付いてきてほしいと頼まれました。
稲川淳二さんはオーディションについて行き、帰ろうとした時、出版社の知り合いに会いあったそうです。
その人は稲川淳二さんと飲んだことがあり、飲むと話が面白いことを知っており、オーディションに出ることを勧められたといいます。
オーディションは新聞記事の5つのネタを子供ににもわかりやすく、小道具を使って説明するというものでした。
稲川淳二さんは劇団員がオーディションを受けているのを見ていて、「自分ならこうやるのに」と思っていたそう。
オーディションでの稲川淳二さんのネタは審査員に受け、プロデューサーにその場でスケジュールの確認をされ、舞台に出演することが決まったそうです。
その後は、子供番組の出演や結婚式の司会などもしていたそうです。
1976年4月から「稲川淳二のオールナイトニッポン」の放送が開始。
ラジオ出演のきっかけは結婚式の司会で、ちょっと怖い話をした際、放送作家が見ていたことで出演が決まったそうです。
当初はレギュラー放送とは言われず、毎週出演の数日前の電話がかかってきて、スケジュールを確認され出演するかたちだったそう。
そして、ある日に「レギュラー放送です」と言われたんだとか。
「稲川淳二のオールナイトニッポン」は1977年9月まで約1年半放送されましたが、稲川淳二さんはレギュラー期間が曖昧なんだそう。
稲川淳二は元祖リアクション芸人
稲川淳二は1980年代になるとテレビに出演するようになりました。
貧乏・不健康というキャラクターで体を張ったリアクション芸人やリポーターとして活躍しました。
1981年からはフジテレビ系の「オレたちひょうきん族」のコーナー「ひょうきんベストテン」で歌手役で出演し、散々な扱いを受け「悲惨だな、悲惨だな、悲惨だなー」と毎回叫ぶ元祖リアクション芸人として人気集めました。
散々なひどい目に合い、最後はカメラに向かってアップで、「いかがでしょうか。喜んで頂けましたか?」とおとすのが一連の流れでした。
他の番組でも、トラと1対1で戦ったり、ワニの歯を磨かされたりと体を張ることが多かったといいます。
稲川淳二が怪談話を始めたきっかけは?
稲川淳二さんの怪談話の原点は子供の頃に母親から怪談話を聞かされことだそうです。
稲川淳二さんの母親は東京の下町出身で話し上手で寝床でよく怪談話をしていたといいます。
怪談話で階段を上がる時の「カンカンカン」などの擬音は母親の語り方を真似ていると話してします。
稲川淳二さんが怪談話で知られるようになったのは1986年のオールナイトフジでの「生き人形」の話をした時からです。
「生き人形」の怪談話は反響を呼び、翌年の987年にはいくつかの怪談を収録したカセットテープが発売され、オリコンチャートの上位にランクインしました。
最初は怪談で食べていこうとは思わなかったそうですが、1993年頃から「稲川淳二の怪談ナイト」という怪談ライブツアーを始め、2019年には通算公演回数808公演、観客動員数57万人を記録していいます。
毎年50前後の公演を開催しています。
稲川淳二の嫁は?
稲川淳二さんが結婚したのは1977年。
嫁は青森県青森市出身の一般女性。
名前は尚子さん。
おしどり夫婦で知られ、夫婦でCMに出演したこともあったそうです。
しかし、2015年のインタビューで嫁と別居中であること明かしました。
別居は1991年からだそうです。
別居のきっかけについて稲川淳二さんは、1991年の元旦に家に帰ったら、誰もいなくいきつけのガソリンスタンドでそのこと話したら、旅行に出かけ7日に帰ってくることを知らされたそうです。
ガソリンスタンドの人が知っていて、自分が知らず、置手紙もなかったことに稲川淳二さんは腹を立て、嫁が謝ったら帰ろうと自分も家を出たといいます。
しかし、連絡はなく1ヶ月後に家に帰ってみると鍵が交換されていたんだとか。
稲川淳二さんはこうなったら根競べだと、それからずっと別居が続いているそうです。
離婚はしておらず、嫁は稲川淳二さんの事務所の社長をしてるのはそのままで、給料は振り込まれているといいます。
別居から何年かたった後に、嫁が別の家をかって引越したそう。
それからは住所も知らないそうです。
2015年のインタビューでは別居は25年で、その間に会ったのは10回ぐらいと話しています。
子供は時々、稲川淳二さんの家に顔を出すそうですが、嫁の住所聞くと、
「言えないんだ、教えたら母さんに怒られる」
と言われるそうです。
離婚について聞かれた際には、
「することはない。離婚は愛があるからすること。愛があるから裏切られた時腹が立つでしょう?私は愛を置いてきた」
引用 https://www.oricon.co.jp/
と離婚の意思はないと話しています。
稲川淳二の子供は息子で病気?
稲川淳二さんの子供は2人。
2人とも息子で、
1977年に長男
1986年に次男
が誕生しました。
長男は貴洋さんといい、俳優をしていたこともあり、2001年には映画に出演したことがあるようです。
次男の由輝さんは先天性の「クルーゾン症候群」という重度の難病でした。
次男の由輝さんはは26歳の若さで亡くなっています。
稲川淳二 工業デザイン
稲川淳二さんは工業デザイナーとして働いていましたが、芸能界に入った後も工業デザイナーとして活動しています。
茨城県に自身の工房を持ち、1987年には世田谷区の焼肉「韓々」の店内、外観およびロゴマークをデザインを手がけました。
他にも、バーのデザインなども手がけ、1996年にデザインした「車どめ」は通商産業省グッドデザイン賞を受賞しました。
その後の稲川淳二さんの作品の情報はありませんが、現在は工房で怪談のネタや執筆活動をしているようです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。