具志堅用高さんは沖縄県出身の元プロボクサー。
学歴や経歴は?
具志堅用高さんは国際ボクシング殿堂入りするほどのボクサーですが、現役時代の凄さ、記録は?
天然と言われますが、天然伝説とは?
嫁はどんな人なんでしょう?
子供は娘?
気になったので、元プロボクサーの具志堅用高さんについて調べてみました。
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具志堅用高の学歴・経歴
名前 具志堅用高
生年月日 1955年6月26日
出身 沖縄県石垣市
身長 162cm
所属 太田プロダクション所属
具志堅用高さんは沖縄県石垣市出身。
具志堅家の先祖は旧琉球王国の士族の家系。
父親は終戦後に石垣島に移住した元漁師。
母親は「神の島」と呼ばれる久高島(くだか)で育った女性。
4人兄弟の3番目。
兄弟は兄、姉、弟。
具志堅用高さんは生まれた時、未熟児で子供の時も、兄弟の中で最も小柄で、中学時代も40キロなかったといいます。
実家は裕福ではなく、電気と風呂がなかったそうで、牛乳が飲める家にあこがれたと話します。
具志堅用高さんが小学1年生の冬に、兄弟でマッチで遊んでいると運悪く自宅に火が燃え移り、自宅は全焼。
しかし、具志堅用高さんの両親は怒りもせずにそれまで以上に働き出したそうです。
そんな両親をみた具志堅用高さんは、いつか自分が両親を楽にしてみせると思ったといいます。
中学は石垣市立石垣中学校
高校は興南高校(偏差値50)
大学は法政大学(通信教育部)
中学時代は野球部に所属し、畑でパイナップルやサトウキビの束を運ぶアルバイトもよくやっていたそうです。
当時は、沖縄は本土復帰前で、アルバイト料は1日50セントぐらいだったといいます。
高校は地元の石垣島にある八重山商工高校(偏差値38)を受験しますが、答案用紙に名前を書き忘れ不合格。
そのため、興南高校に進学。
沖縄本土の那覇市にある男女共学の私立高校。
興南高校に進学後は親戚のおばさんの家に下宿していました。
具志堅用高 高校で初めてボクシングに出会う
具志堅用高さんは中学でも入っていた野球部に入部しようとしますが、身長が低かったため入部を断られたそうです。
「お前ダメだって言われたもん。小さいから。いらないって言われたもん。」
引用 https://news.livedoor.com/
2学期にボクシング部に入っている同級生と知り合い、ボクシングなら小さい自分でもやれると思いボクシング部に入部。
当時の石垣島のテレビはNHKしか映らず、民放が放送するボクシングの試合を見ることが出来ず、ボクシング部に入部するまで、ボクシングを見たことがなかったそうです。
ボクシング部先輩に、後にトレーニングパートナーになる仲井真重次さんがいて、自分の下宿している風呂屋で下宿すれば、風呂屋で働くと3食つきで下宿代はタダだといわれ、風呂屋で下宿。
入部したボクシング部には、ちゃんとたリングはなく、授業終了後に机を移動し、サンボバックを1つ1つぶら下げて練習を始めたそうです。
練習で初めてグローブをはめて打ち合った時は
鼻血が出て痛かったく、当初は面白くはなかったといいます。
その後も練習を続け、入部3ヶ月で初めて出場した試合に勝ち、自信がついてボクシングに夢中になったと話します。
2年生で出場した大会では準優勝。
3年生のインターハイ・モスキート級で優勝。
高校時代の戦績は65戦62勝(50KO)3敗。
高校卒業後は、拓殖大学商学部に推薦入学が決まっていました。
拓殖大学に入学するつもりで、上京した具志堅用高さんですが、空港に協栄ジムのマネージャーが待ち構えており、協栄ジムに連れて行かれ協栄ジムに入ることを勧められました。
大学は学費免除のはずでしたが、なぜか入学金の払い込み通知が来ていた事が具志堅用高さんは気になっており、両親には迷惑かけられないと思い拓殖大学進学を辞退しプロ入りを決断しました。
ジムには記者もきており、翌日の新聞に「海老原2世プロ入りへ」と掲載されたそうです。
後に大学は通信教育で法政大学を卒業。
具志堅用高 上京後、沖縄出身で苦労
上京しプロ入り後の生活は楽ではありませんでした。
具志堅用高さんが上京する2年前の1972年に沖縄は返還されましたが、当時は沖縄出身というだけで、アパートを契約するのも難しかったといいます。
最初は沖縄の先輩の部屋に泊めてもらい、その後は、飯田橋のとんかつ屋「ひろかわ」で昼の11時から午後3時くらいまで月給4万円の住み込みアルバイトをしたそうです。
言葉にも苦労したといいます。
相手の話はわかりますが、沖縄の言葉を本土の言葉にして話そうと考えているうちに、結局何も喋れず、とにかく「頑張ります」っていうばかりだったそうです。
沖縄出身の具志堅用高さんには東京の冬の寒さも厳しく、ロードワークしても汗ひとつかかなかったといいます。
救いは食べ物が美味かったことで、特に白米は美味しかったとい、焼き魚1匹でどんぶり2杯はいけたそうです。
具志堅用高の現役時代や記録は?
具志堅用高さんは1974年5月に4回戦でフライ級でプロデビュー。
具志堅用高さんサウスポーで、食べても太らないため減量が必要なく、ボクサーと資質に恵まれていました。
ハードパンチャーでありましたが、ただ前に出るというタイプではなく、駆け引きをしながら戦うタイプ。
相手によって戦い方を変える器用さもあるボクサーで100年に1人の男とも言われていました。
新しくジュニアフライ級(現在のライトフライ級)が新設され、具志堅用高さんは同クラスに転向。
その後は実力を発揮し、連勝を続けデビューから2年後の1976年10月、無敗の9戦目でWBA世界ライトフライ級タイトルマッチに挑戦。
7回KO勝ちし世界チャンピオンになりました。
この試合後「自分はカンムリワシになりたい」と発言したことから「カンムリワシ」の異名がつきました。
カンムリワシは石垣島に生息し国の特別天然記念物です。
具志堅用高さんは21歳でした。
それから、具志堅用高さんは王座13回の防衛を記録。
生涯戦績 は24戦23勝(15KO)1敗でした。
具志堅用高さんが14度目の防衛戦で敗北したの1981年3月でデビューから7年目、チャンピオンンになってから5年目。
25歳の時でした。
具志堅用高さんの13回の防衛記録は日本人では現在も破られていません。
2015年には世界ボクシングの殿堂入りを果たしました。
世界ではアメリカ人ボクサーのジョー・ルイスさんの25回が最高記録です。
これは1940年代の記録ですが、現在も破られていません。
日本人で2番目の記録は山中慎介さんの12回です。
具志堅用高さんが14度目の防衛戦で負けた相手は、13度目の防衛戦で勝った相手。
前試合は判定勝ちでした。
再戦で具志堅用高さんは8回と12回にダウンし、遂にセコンドからタオル投げられました。
具志堅用高さんはダウンした記憶もなく、自分がダウンしことを知ったのは翌日だったといいます。
当時、具志堅用高さんは25歳と若かったですが引退。
引退を決めた理由は、負けた試合でえ網膜はく離寸前になり、「眼球注射」をすることになったそうで、その「眼球注射」が恐怖で、もうボクシングはできないと思い引退を決めたと話しています。
具志堅用高のファイトマネーは?
ファイトマネーはチャンピオンになった21歳の時で、ファイトマネーだけで年間1億2000万円だった話しています。
CMなどにも出演しファイトマネー以外にも収入があり最高月収は約7000万円になったことあったといいます。
具志堅用高の嫁は?子供は娘?
具志堅用高さんが結婚したのは1981年3月。
妻の名前は香澄さん。
年齢は2歳年下で、結婚した時、具志堅用高さんは25歳、香澄さんは23歳でした。
香澄さんは協栄ジムの会長の知り合いの娘で、たまたまジムに香澄さん連れてきたことで出会ったそうです。
交際期間は1年半。
結婚披露宴は1500人を招待し、費用は4億5000万円だったといいます。
披露宴の費用は具志堅用高さんは知らず、終わってから4億5000万と告げられ驚いたと話しています。
具志堅用高さんの子供は2人。
息子と娘です。
長男は用輔さん、長女が麻衣さんという名前のようです。
子供は結婚しており、5人の孫もいるそうです。
具志堅用高の天然伝説は?
天然で知られる具志堅用高さん。
数々の天然伝説がありました。
高校時代には自身の偏差値より10以上低い、確実に合格するだろう高校を答案用紙に名前を書き忘れるという天然エピソードがあります。
このことについて具志堅用高さんは、
「名前を書くところがどこかわからなかったんだよー。いちばん上にあるらしいね」
と発言。
入学した母校の興南高校についてのインタビューで「母校の伝統はなんですか?」と聞かれ、
「ナショナル」
と答えたといわれています。
ある番組で「1から9までの中から好きな数字を選んで下さい」と言われて
「ラッキーセブンの5」
座右の銘を聞かれ、
「左右とも2.0」
趣味を聞かれ、趣味という言葉を知らず、好きなものことだと言われ、
「なら趣味はソーキそばだね」
連想ゲームで具志堅用高さんはしりとりをしてしまったこともあるとか。
具志堅用高さんはボクシングでも天才的といわれていましたが、発言も天才的なようです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。