岡村孝子さんは愛知県出身のシンガーソングライター。
大学などの学歴や経歴は?
元旦那元室野球選手の石井石井浩郎さんですが、馴れ初めは離婚理由は?
子供は娘?
気になったので、岡村孝子さんにつてい調べてみました。
岡村孝子の学歴・経歴
名前 岡村孝子
生年月日 1962年1月29日
出身 愛知県岡崎市
小学校・岡崎市立矢作西小学校
中学校・岡崎市立矢作中学校
高校・岡崎北高校
大学・ 椙山(すぎやま)女学園大学
父親、母親、弟の4人家族。
父親はタクシー会社を経営しながら、市会議員をしていました。
母親は父の仕事を手伝っていたそうです。
実家周辺はビニールハウスと田んぼに囲まれた四季はっきり分かる環境だったといいます。
保育園の時に音楽教室でピアノを始め音楽に出会いました。
習って2年くらいしたころにピアノの先生から、
「お嬢さんはピアノが好きみたいなので、やらせてみてはどうか」
との話しがあり、両親にねだり家にピアノを買ってもらい、小学校に入ってもレッスンを続けました。
その後は声楽の先生についていたこともあるそうです。
矢作中学校では合唱部に所属。
合唱部は前項大会に出場し賞もとっていたそうで部員数は多く、オーディションを受けて半数の部員した大会には出られなかったそうです。
岡村孝子さん1年生でオーディションに合格。
1年生で選ばれたの2人だけだったそうです。
岡村孝子さんのパートはアルトでした。
部活以外で、中学生から岡崎市のスポーツ少年団で乗馬クラブにも入っていたそうです。
高校は岡崎北高校に進学。
岡崎北高校は愛知県岡崎市にある男女共学の県立高校。
現在の偏差値は65。
高校では音楽部と写真部に所属。
大学は1年の浪人を経て、1981年、椙山女学園大学に入学。
椙山女学園大学は愛知県名古屋市にある大学です、
現在の偏差値は43~50。
大学で知り合った加藤晴子さんと「あみん」を結成し、1982年「待つわ」でデビュー。、
大学は4年生の時に中退しました。
岡村孝子がシンガーソングライターになるきっかけ
岡村孝子さんが歌手をシンガーソンライターになりたいと思ったのは高校2年生の時。
高校2年生の時にラジオで『シンガーソングライター』という存在を知ったことがきっかけだといいます。
その後は、自分で曲を作るようになり、作曲編曲教室にも通いました。
当時は、
「シンガーソングライターになってプロデビューするんだ」
という強い思いとなぜか、
「絶対になれる」
という根拠のない確信があったと話しています。
岡村孝子 あみん結成から活動休止
岡村孝子さんは椙山女学園大学に入学後、加藤晴子さんと出会いました。
入学直後に岡村孝子さんが加藤晴子さんに履修届の書き方を聞いたのが出会いだといいます。
その後、2人とも音楽が好きなことが分かり意気投合。
岡村孝子さんが自作の曲を加藤晴子さんに聞かせたところ、加藤晴子さんの心に響き、1981年に「あみん」を結成しました。
「あみん」の名前はさだまさしさんの曲「パンプキン・パイとシナモン・ティー」に登場する喫茶店「安眠(あみん)」からとったそうです。
大学1年の1981年秋、あみんは第22回ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)に応募。
「琥珀色の想い出」で中部北陸大会で優秀曲賞を受賞しましたが、本選までは進めませんでした。
翌年の1982年、第23回ポプコンに「待つわ」で出場。
本選に進出し、グランプリを獲得しました。
「待つわ」の作詞・作曲は岡村孝子さんで、予備校時代のボーイフレンドに向けて書いた曲だといいます。
同年7月25日に「待つわ」で日本フォノグラムよりレコードデビュー。
「待つわ」は発売直後からトントン拍子で売れ、8月末にはオリコンチャートで1位になり、1982年唯一のミリオンセラーを記録し大ヒットしました。
あみんは一気に有名になり、大学の授業に出ると教授から「芸能人は来るな」と教室を追い出されたこともあったといいます。
同年12月31日の第33回NHK紅白歌合戦にも出演しました。
1983年4月25日、1枚目のアルバム「P.S. あなたへ…」をリリース。
同年5月からは全国6か所で初ツアーも行いました。
この頃から加藤晴子さんが辞める意思を示しました。
理由は、
「芸能界は私のいる場所ではない」
ということでした。
当時は大学3年生で、翌年に控えた就職活動を前に、辞めたかったそうです。
岡村孝子さんはそれに同意。
「私が半ば強引に誘ってデビューした。ハコ(加藤)の気持ちを尊重したかった。別の人と組んでとレコード会社の人に言われたけど、ハコ以外の人とのあみんは考えられなかった」
と後に振り返っています。
1983年12月18日の愛知県勤労会館のコンサートをが最後の活動になり、12月20日にリリースしたアルバム「メモリアルをもって活動は休止となりました。
活動期間は1年半でした。
加藤晴子さんは大学卒業後、テレビ東京に就職しています。
岡村孝子 ソロ活動からあみん再開
岡村孝子さんはあみんの活動休止後は大学に戻り、それからは「花嫁修行」と称して車の免許を取ったり、着付け教室に通ったりしていましたが、
「このまま大学を卒業したら、きっとシンガーソングライターとしての活動をあきらめて地元に就職してしまうだろう」
と思い大学を4年で中退し、23歳の1985年5月に上京。
同年10月、「風は海から」をリリースしソロデビューしますが、「待つわ」の存在は大きくヒットはしませんでした。
1987年2月にリリースしたシングル「夢をあきらめないで」が。応援歌的な内容が幅広い層から支持を集めヒット。
岡村孝子さんの代表曲となっています。
2007年6月に「ひまわり/待つわ’07」をリリースしあみんが活動再開。
同年12月31日に第58回NHK紅白歌合戦に出場しました。
岡村孝子と旦那の馴れ初めは?
岡村孝子さんが結婚したのは1997年1月。
旦那はプロ野球選手の石井浩郎さん。
年齢は2歳年下。
結婚した時、岡村孝子さんは35歳、石井浩郎っさんは33歳でした。
石井浩郎さんは結婚した年に近鉄から巨人に移籍。
1994年には打点王に輝き、最高推定年俸1億5000万円。
岡村孝子さんと結婚した1997の推定年俸は9000万円でした。
馴れ初めは岡村孝子さんの曲「夢をあきらめないで」。
石井浩郎さんは急性肝炎を患い入院していた際に、お見舞いに来た同じ近鉄の同僚だった野茂英雄さんから岡村孝子さんの「夢をあきらめないで」を差し入れてもらったそうです。
石井浩郎さんは「夢をあきらめないで」に勇気づけられながら治療し、退院後、岡村孝子さんのライブに行き楽屋にお礼にいったそうです。
それがきっかけで石井浩郎さんの熱烈な求愛の末に交際に発展し、結婚に至ったといいます。
岡村孝子の離婚理由は?
岡村孝子さんと石井浩郎さんが離婚したのは2003年9月。
結婚生活は約6年半。
離婚は石井浩郎さんがプロ野球選手を引退した翌年でした。
離婚時に理由などは語れませんでした。
一部の報道で離婚の理由・原因について、
「01年に岡村の実父がホテル経営で15億円もの借金を作ったとされ、連帯保証人となっていた岡村がこれをこうむることになり、歌手復帰を果たしていました。そうした状況から、すれ違いやケンカの原因は岡村のほうにあったと見るのが自然」
引用 https://www.asagei.com/
「石井さんは“生活全般をサポートしてくれなかった。野球選手の妻として失格”さらに“人魚かと思って釣ったらホホジロ鮫だった”と周囲に愚痴っていたそうです。」
引用 https://www.news-postseven.com/
と報じられています。
石井浩郎さん離婚の3年後の2006年に元モデル・レースクイーンの再婚しますが、離婚し2013年にフリーアナウンサーの女性と3度目の結婚をしています。
岡村孝子さんは2021年現在再婚はしていません。
岡村孝子の子供は娘?
岡村孝子の子供は娘が1人。
1997年9月に生まれました。
帝王切開だったそうです。
離婚後は岡村孝子さん親権を持ち引き取りました。
岡村孝子 白血病から復帰
2019年、コンサートツアーを予定していましたが、4月に急性白血病との診断を受けて入院。
治療のため期休養に入りました。
同月に所属事務所がオフィシャルサイトで白血病を発表。
なんだか体調がおかしいと感じたのは2019年3月のことだったといいます。
当初は「体力が落ちたのかな?」くらいに考えていたそうです。
検査の結果白血病と診断されましたが、「病気が早く見つかった」そうです。
治療は、1クールが5~7日の抗がん剤治療を3クール。
約5ヵ月間入院し2019年9月末に退院。
さい帯血移植を経て「移植後完全寛解」の状態にあることを報告しました。
2021年7月3日、「THE MUSIC DAY」(日本テレビ系)に生出演し、2年2か月ぶりのステージ復帰しました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。