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松島トモ子の結婚や子供は?ライオン・ヒョウ事件はなぜ?経歴や高校などの学歴

松島トモ子さんは東京都育ちのタレント。

経歴や高校などの学歴は?

結婚や子供は?

ライオンとヒョウに噛まれた事件はなぜ?

気になったので、タレントの松島トモ子さんについて調べてみました。

松島トモ子の高校などの学歴・経歴

名前   松島トモ子
生年月日 1945年7月10日
出身   東京都目黒区
身長   155cm

小学校・目黒区立東根小学校

中学校・大東学園中学

高校・ 大東学高校高 → ザ・マスターズ・ハイスクール

大学・進学していません

旧満州国奉天(現中国東北部)生まれ、東京都育ち。

本名は松島奉子(まつしま ともこ)

父親は三井物産勤務の会社員。

兄弟はなく、ひとりっ子。

父親は満州国でシベリアにで現地招集を受け出征。

その後、シベリアに抑留され、松島トモ子さんが生後3ヶ月だった、1945年10月に収容所で病死しました。

松島トモ子さんは父親に会ったことはなく、シベリアへの墓参りが実現できたのは45年後だったといいます。

3歳の時、鮮満国境に近い収容所でバレエを習い始めました。

1948年秋に母親と共に日本に帰国し、東京都目黒区柿の木坂に移り住みます。

帰国後、本格的にバレエを習いはじめ、4歳の時、バレエを習っていた子供たちが映画館の劇場ニュースで「小さな豆バレリーナ」としてとりあげられ、それを見た歌舞伎役者の阪東妻三郎さんにスカウトされました。

1950年5月公開の映画「獅子の罠」で子役デビュー。

1951年には東京新聞社主催の舞踊コンクール洋舞第二部で二位に入賞しました。

松島トモ子さんは人気子役となり、多くの映画に出演し、80本の映画で主演を務めました。

少女雑誌「少女」では、表紙を10年間一人で務め、芸能雑誌「平凡でもモデルを務めていました。

1953年には、コロムビアから「村の駅長さん」を発売し歌手デビュー。

その後も1970年代まで30枚以上のシングルをリリースし、映画の主題歌や挿入歌を歌ったそうです。

中学は大東学園中学校、高校は大東学園高校に進学。

大東学園高校は東京都世田谷区にある男女共学の私立高校で、現在の偏差値は40。

高校在学中の17歳の時に渡米し、ニューヨーク郊外のザ・マスターズ・ハイスクールに2年間留学しました。

卒業後、、マーサ・グラハム(モダン・ダンス)に入門。

帰国後は、ミュージカルを中心に、ラジオ、テレビのパーソナリティや、テレビリポーターとして活躍。

石垣食品のミネラル麦茶のCMには25年間出演していました。

松島トモ子の結婚や子供は?

松島トモ子さんは1度も結婚歴はなく、子供もいません。

若い頃も熱愛の噂などもなかったようです。

松島トモ子さんは子役時代からは母親がマネージャーを務めており、母親は晩年は認知症を発症し、松島トモ子さんは介護をしていました。

母親が認知症を発症したのは2016年頃の95歳の時で、母親の誕生会で突然発症したそうです。

松島トモ子さんは70歳を過ぎていました。

その後、5年間介護し2021年10月に100歳で亡くなりました。

松島トモ子のライオン・ヒョウ事件はなぜ?

松島トモ子さんはライオンとヒョウに襲われた経験があることで知られます。

ライオン、ヒョウに襲われたの松島トモ子さんが41歳の時でした。

1986年に日本テレビのドキュメンタリー番組「NTTアワー TIME21」で撮影でケニアを訪れ、10日の間にライオンとヒョウに立て続けに襲われました。

専門家と共ににナイロビのコラ動物保護区で、ラクダの肉で餌付けされ人に慣れた雌ばかり7頭のライオンの群れと接触し子ライオンと戯れていたところ、専門家が無線で話をして目を離した隙に、その子ライオンの母親に襲われました。

松島トモ子さんは10メートルほど引きずられ、着ていたサファリスーツはズタズタになり、すぐに専門家に助けられましたが、首や太腿に全治10日の怪我を負いました。

入院予定は10日でしたが3日で退院し、松島トモ子さんは仕事を再開。

再び別の動物保護区を訪れ、万全の態勢でロケに挑みました。

保護区で飼育されている雌ヒョウの「コムンユ」を見に、周りを高い柵で囲われた施設に行き、施設の外に出たところ、そのヒョウが夜に柵を跳び越えており、松島トモ子さんと目が合ったことで攻撃。

松島トモ子さんは体当たりをされ、倒れたところに首を噛み付かれ、さらに持ち上げられたそうです。

この時、骨がガリガリと囓られる音が聞こえ、松島トモ子さんは「死んだ」と思ったといいます。

その後、救助ヘリを要求しますが、「夜間の飛行は危険」との理由で拒否。

朝まで止血しながら耐え、朝になり救急ヘリが到着し、ようやく病院に運ばれました。

診断は「第四頚椎粉砕骨折」で、あと1ミリずれていたら間違いなく死んでいただろうとされる大怪我でしたが松島トモ子さんは後遺症も無く生還。

松島トモ子さんの症例はニューヨークの学会で発表されたといいます。

帰国後、松島トモ子さんはコルセットをつけて記者会見に臨み「それでも動物が好き」とコメントしています。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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