ベテランシンガーソングライターの加藤登紀子さん。
再婚の噂や旦那の職業は?
高学歴で東京大学出身。
娘は歌手でカフェも経営?
気になったので、歌手の加藤登紀子のさんについて調べてみました。
加藤登紀子の学歴・経歴
名前 加藤登紀子
生年月日 1943年12月27日
出身 満洲国・ハルビン市
身長 155cm
血液型 O型
所属 トキコ・プランニング
父親は関東軍特務機関や南満州鉄道に勤務、終戦後はHNKで働きました。
加藤登紀子さんは満州ハルピン市で生まれ、戦後は母方の実家のある京都に引き揚げ、京都市立上賀茂小学校に入学。
中学1年の夏に父親の転勤で、東京都世田谷区に引っ越し、世田谷区立桜木中学校に転校。
高校は東京都目黒区の駒場高校を卒業。
現在の偏差値は68。
高校時代は放送部に所属、放送部の1年後輩には女優の吉永小百合さんがいました。
大学は東京大学文学部西洋史学科を卒業。
大学では演劇研究会に所属し、学生運動ににも参加しました。
大学は6年かけて卒業。
大学在学中に歌手デビューしました。
中学時代は数学0点で東大に合格
中学1年生のときに東京に引っ越し世田谷区の中学に転校すると、授業の進度が大きく違い、9月の学力テストでは得意だった数学で初めて0点を取ったそうです。
学校に通うのも嫌になったといいますが、6歳年上の兄と一緒に勉強し、次第に成績は上がりくクラス委員長になり、卒業式のときには答辞を読んだそうです。
高校受験では都立駒場高校にトップで合格。
トップ合格だったこともあり1年生のときには「東大を狙う」と言っていましたが、部活や学生運動で忙しくなり、成績は下がり2年生のときには担任に「このままでは東大は無理」と言われ、父親には
「女は東大に行くもんじゃない」
と言われたことで奮起して3年に秋から本格的に勉強。
東大模擬試験ではひどい結果でしたが、本番の試験では解ける問題が多く、合格できたそうです。
シャンソンコンテストで優勝して歌手デビュー
「恋に夢中でろくに大学にも通っていない私を見かねたのか、父がシャンソンコンクール出場を提案してきました。」
引用 https://www.yomiuri.co.jp/
加藤登紀子さんはフランスの歌手、エディット・ピアフさんにに傾倒していたこともあり出場を決め、1965年に日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝。
翌年の1966年に「誰も誰も知らない」で歌手デビューし、第8回日本レコード大賞 新人賞を受賞。
1969年、1971年には日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、1971年末に紅白歌合戦に初出場。
1992年にはジブリ映画「紅の豚」でヒロイン・マダム・ジーナの声優を務め、主題歌、エンディングテーマも担当しました。
旦那とは獄中結婚で再婚した?
加藤登紀子さんの結婚歴は1度で再婚はしていません。
旦那は学生運動家だった藤本敏夫さん。
出会ったのは学生運動で、すでに歌手だった加藤登紀子さんが東大の卒業式ボイコットに参加すること知った学生運動のリーダーだった藤本さんが「集会に来て歌ってください」求め、加藤登紀子さんが「歌手を政治に利用するのは良くない」と断ると藤本さんは「そうですね」とあっさりと同意。
その潔さに好感を持ち、その後、藤本さんから「会いたい」と連絡をもらい、会うとお互い好意を持っていたことから間もなく交際に発展。
その後、藤本さんは学生運動から離れましたが、1972年4月に過去の、学生運動に関連しての公務執行妨害・凶器準備集合などで実刑判決を受け、中野刑務所に収監。
当時、加藤登紀子さんは長女を妊娠しており、5月に獄中結婚しました。
藤本さんは1981年に千葉県鴨川市で自然生態農場「鴨川自然王国」を設立。
1999年には農林水産省関東農政局の諮問委員に就任、2000年には株式会社ナチュラルコミュニケーションズを設立、代表取締役に就任しましたが、2002年7月に肝臓がんで58歳で死去。
その後、加藤登紀子さんは再婚はしていません。
娘は歌手でカフェも経営
加藤登紀子さんには娘が3人います。
長女は1972年、次女が1975年、三女が1980年に生まれました。
次女の八恵さんは2001年に「Yae」の名義で歌手デビューし、2018年には加藤登紀子さんがコンサートをプロデュースしています。
八重さんは父親の設立した「鴨川自然王国」でカフェ「Cafe En(カフェ・エン)」も経営していいます。
メニューは米も野菜も鴨川自然王国産で、農場は八重さんの夫が代表を務めているようです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。