ドラマ「裸の大将放浪記」の山下清役がハマり役だった芦屋雁之助さん。
結婚歴は2度のようすが妻はどんな人?
子供は息子と娘がいるようです。
晩年や死因は?
気になったので俳優の芦屋雁之助さんについて調べてみました。
芦屋雁之助のプロフィール・経歴
京都府京都市生まれ。本名は西部 清(にしべ きよし)。
6人兄弟で弟はコメディアンの芦屋小雁さん。
実家は友禅染の染物屋を経営していましたが、芸事が好きだった父親は戦後、「若松家」の亭号を名乗り漫才師になった上、一座を組んで巡業も始め、雁之助さんも京都市立朱雀中学校時代からは父親について芸をこなし、漫才師に弟子入りもして、師匠と漫才を行い、舞台の前座で手品などもしていました。
中学卒業後は高校には進学せず芸人の道に進み、18歳の時には弟の弟の秀郎(芦屋小雁)と共に人気漫才師だった「芦の家雁玉・林田十郎」に弟子入りし、「雁之助」と「小雁」の名前をもらいましたが、亭号「芦の家」を勝手に「芦屋」に変えたため破門になっています。
その後は関西を中心に漫才師として活躍、「若手漫才の有望株」と言われましたが、4年後に演劇評論家に勧められて漫才を辞めて、1954年、開場した「OSミュージックホール」に入り、座付作者の花登筐さんのコントを演じるようにました。
喜劇役者として活躍
「OSミュージックホール」で活動した後、1959年、花登さんが結成した『劇団・笑いの王国』 に参加。劇団には大村崑さんも参加していました。
大村さんと共に劇団で活躍し、同年3月からは放送が開始された毎日放送の公開コメディー番組『番頭はんと丁稚どん』に出演。
強面で下の者には厳しいが、裏では大阪のおばちゃんのような女性口調になる薬屋の番頭を演じ、「いやいやっ、もの凄いこと言わはる」、「わてが雁之助だんねん」などのギャグで人気を集めました。
裸の大将放浪記の山下清が当たり役
1964年に劇団が解散すると、同年に弟の小雁さんと劇団「喜劇座」を旗揚げ。
座付き作家であった藤本義一さんが雁之助さんの風貌が画家の山下清さんに似ている指摘し、舞台劇『裸の大将放浪記』を書き上げ、公演すると評判となりました。
旗揚げ5年目の1969年に劇団解散後は、活動拠点を東京に移し、喜劇だけでなく時代劇『水戸黄門』、『銭形平次』などで演技派俳優としても活動。
1976年には「必殺シリーズ」の『必殺からくり人』にレギュラー出演しました。
1980年に舞台で演じて好評を得た山下清役を、テレビドラマ『裸の大将放浪記』(フジテレビ)で演じるとこれが当たり役となり、1997年まで17年間制作されました。
結婚歴や妻、子供
芦屋雁之助さんには2回の結婚歴があります。
最初の結婚は1960年で、妻は大阪の「OSミュージックホール」のダンサーだった夏丘梨枝さん。
同じ時期に弟の小雁さん大村崑さんも結婚し、3組合同による『テレビ結婚式』を挙げています。
子供は息子が3人誕生し、1967年に誕生した三男が物心ついた頃に離婚しました。
三男は俳優の芦屋雁三郎さんで、父親と過ごした記憶はほとんどないといいます。
時期は不明ですが、約20歳年下の梅田コマ劇場のダンサーだった大島久里子(西部久里子)さんと再婚。
1976年8月には娘の里菜さんが誕生。
里菜さんは西部里菜の名前で女優、歌手として活動していました。
晩年と死因
芦屋雁之助さんは大食いで多い時には1日に5食も食べていたといい、糖尿病を発症。
1994年頃からは病状が悪化。静養しながらもテレビや舞台に出演していましたが、1995年以降はテレビ、映画には出演していません。
糖尿病は大食漢だったことが理由といわれていますが、雁之助さん本人は晩年に、
『山下清の役作りのために体重を落とすわけにもいかなかった』
と述べています。
2004年4月7日、鬱血性心不全のため京都市市内の病院で死去。72歳でした。