埼玉県出身に落語家・林家たい平さん。
高校などの学歴や経歴は?
結婚しているようですが、妻はどんな人?
子供は娘と息子がいるようです。
気になったので、落語家の林家たい平さんについて調べてみました。
林家たい平の学歴・経歴
名前 林家たい平
生年月日 1964年12月6日
出身 埼玉県秩父市
身長 168cm
所属 落語協会
小学校・秩父市立花の木小学校
中学校・秩父市立秩父第二中学校
高校・秩父高校
大学・武蔵野美術大学造形学部
本名は田鹿明(たじか あきら)
父親、母親、6歳上の姉、4歳上の兄の5人家族。
父親はテイラーメイドの洋服店を経営。
母親は駄菓子屋を経営。
林家たい平さんは幼い頃からモノマネが好きで、美空ひばりさんや川團十郎さんのモノマネをしていたそうで、モノマネがお笑いの原点だといいます。
中学時代は生徒会長。
同じ秩父市出身のお笑い芸人・アキラ100%さんは中学校の後輩で、アキラ100%さんも生徒会長だったそうです。
高校は秩父高校に進学。
秩父高校は埼玉県秩父市にあり男女共学の県立高校。
偏差値は54。
高校時代は美術部に所属。
美術部では絵だけではなく、映画製作も行っていたそうです。
高校時代は学園ドラマの「金八先生」に憧れて学校の先生になりたいと思っていたといい、勉強は苦手だったため美術の先生になろうと、美大に進学することを決めました。
大学は武蔵野美術大学造形学部 視覚伝達デザイン学科に進学。
武蔵野美術大学は東京都小平市にある私立大学です。
大学入学後、授業で教わった『デザインは人を幸せにするためにある』という言葉に魅せられて、志望を美術の先生からデザイナーに変更。
しかし、思うようなデザインは出来ず、焦りがばかりが募っていたそうです。
そんな時、落語に出会い大学卒業後は落語家に入門しました。
林家たい平が落語家になったきっかけ
美術の先生になろうと美術大学に進学しますが、大学入学後は志望をデザイナーに変更。
しかし、思うようなデザインができず悩んでいた大学3年生の時に落語に出会いました。
落語に出会ったのラジオ。
下宿先で深夜にラジオを聞きながら課題作品を制作していると、柳家小さん師匠の『粗忽長屋(そこつながや)』が流れてきて衝撃を受けたそうです。
ラジオで声しか聞こえないのに、風景や人の顔が浮かんで引き込まれ、最後には大笑いしていいたといいます。
その時、「どうしてもっと早く落語に出会っていなかったのか」と思い落語階になることを決意しました。
大学4年生のとき、落語を二席覚えると、自分の力量を試そうと着物姿で下駄を履き、おじいちゃんおばあちゃんに落語を披露するため、東北の老人ホームや温泉旅館を回ったそうです。
大学卒業後は、林家こん平さんにに弟子入りを志願。
弟子入りはすぐには認められず、大師匠・林家三平が生前に暮らした海老名家で住み込み、修業し、1年後の1988年8月にやっと弟子入りを認めてもらいました。
23歳のときでした。
その後も住み込み修業は続き、内弟子生活は6年半でした。
林家たい平 笑点メンバーに抜擢
林家たい平さんは1992年5月に二つ目に昇進。
翌年の1993年に
北区若手落語家競演会で優勝
NHK新人演芸大賞で優秀賞を受賞
2000年3月に真打昇進しました。
林家たい平さんは35歳でした。
林家たい平さんが初めて笑点に出演したのは2004年12月。
声帯を患い入院していた林家こん平さんの代役としての出演でした。
2006年、林家こん平さんは趣味の卓球ができるまで回復はしたものの噺家としての復帰は当面困難という事から同年5月に林家たい平さんが後任として正式メンバーに昇格しました。
林家たい平さんは41歳で当時の最年少メンバーでした。
林家たい平の妻
林家たい平さんが結婚したの1996年。
31歳の時でした。
妻は田鹿千華(たじか ちか)さん。
元フリーアナウンサーで、年齢は林家たい平さんと同い年。
田鹿千華さんは宮城県出身で、大学卒業後、リクルートホールディングスに入社し、広報室に勤務。
リクルート退社後は、フリーアナウンサーに転身しNHK-BSの初代スポーツキャスターに就任。
サッカー番組などでJリーグ草創期のサッカーキャスターとして活動しました。
笑点では度々名前が出され、ネタとして「恐妻」として紹介されていいます、
林家たい平の子供は娘と息子
林家たい平さんの子子供は3人。
息子が2人と娘が1人です。
長男、長女、次男の順番で生まれています。
長男は1997年1月生まれで、名前は咲太朗さん。
咲太朗さんは大学卒業後の2019年3月に、父親である林家たい平さんに入門しました。
林家さく平の名前で落語家として活動しています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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