高田純次の嫁は?娘はアパレルでデザイナー?高校や大学などの学歴は?

タレント

高田純次さんは東京出身のタレント。

高田純次さん結婚しているのでしょうか?

嫁は?

高田純次さんの子供は娘で、仕事はアパレル関係でデザイナー?

学歴や経歴は?

気になったので、高田純次さんについて調べてみました。

高田純次の嫁は?

高田純次さんは1973年頃に結婚しています。

嫁は勢子さんという名前で1歳年下。

26歳の時の結婚のようです。

「高田には、26才の時に結婚した1才年下の妻」

引用 https://www.news-postseven.com/

高田純次さんと嫁の馴れ初めは「自由劇場」のようです。

高田純次さんが「自由劇場」に入った時、嫁に出合ったとされています。

嫁は日舞の師範であったそうで、劇団員だったのか、日舞を教える関係者だったのかはわかりません。

「高田は26才の時に、当時日舞の師範だった1才年下の女性と結婚。」

引用 https://www.news-postseven.com/

出合って間も無く同棲を始め、1年後に結婚しました。

高田純次さんは結婚した26歳の時に宝石販売会社の就職しています。

4年後の30歳の時、会社を辞め「劇団東京乾電池」に参加した後は、家賃2万2000円の風呂なしアパート住んでいたそうです。

高田純次の娘はアパレルでデザイナー?

高田純次さんの子供は娘が2人。

1976年に長女が、1981年に次女が誕生しています。

高田純次と検索すると「娘 デザイナー」と出てきますが、長女がデザイナーをしているようです。

名前は高田祐子さん

文化服装学院卒業後、国内のアパレルブランドを経て、イギリスに渡り、ロンドンのkei kagami Ltd.でデザイナーアシスタントとして、ミラノコレクション、パリファッションウィーク、ロンドンコレクションに参加しました。

帰国後は自社ブランドのTAGE(タージュ)を立上げています。

高田純次の事故は当て逃げじゃなかった

高田純次さんは2019年4月14日に首都高で接触事故を起こしました。

その時、被害者に「いま20万円ある」と現場での示談を持ちかけていたと報道されました。

その後、「週刊文春」が当て逃げ疑惑を報じました。

事故の内容は、合流点で本線に入った高田純次さんの車が被害者の男性が運転する車の左後部に接触。

しかし、高田純次さんはそのまま接触した車を追い越していったため、被害者の男性はパッシングなどで知らせ、高速を降りたところで止まり話し合いになったそうです。

高田純次さんは、接触には気付かなかったと話しました。

高田純次さんの事務所は

「当てて止まって話しているので、当て逃げではありません」

とコメント。

警視庁も

「当て逃げの事実はない」

としています。

高田純次 学歴・経歴

名前   高田純次
生年月日 1947年1月21日
身長   175cm
出身   東京都調布市
所属   テイクワン・オフィス

父親は東京ガスに務める会社員。

母親は高田純次さんが4歳の時、病気で他界。

32歳でした。

小学校、中学校時代は成績優秀。

常に学年の10番以内に入っていたそうです。

高校は府中高校。

府中高校は東京都府中市にある男女共学の都立高校。

現在の偏差値は53

歌手の布施明さんも卒業生です。

高田純次さんは高校時代は天文同好会、野球同好会など掛け持ちして所属。

大学進学を目指しますが、2年連続失敗。

現役で青山学院大学や明治大学、中央大学など受験しましたが全滅。

浪人のときは、東京芸大、武蔵野美大、多摩美大、日大芸術学部など美術系の大学を受けましたが1校も受からなかったそうです。

当時は将来は弁護士か、父親が勤めていた東京ガスに就職したかったと話します。

その後、大学進学は諦め、東京デザイナー学院に入学しました。

東京デザイナー学院にはイラストレーターになりたくて、グラフィックデザインを学ぶために入ったそうです。

東京デザイナー学院を卒業後の1971年、24歳のとき、友人に誘われ「自由劇場」の舞台「マクベス」を見て感動し、「自由劇場」の研究生になりました。

しかし、1年で退団。

退団後、俳優のイッセー尾形さんとともに劇団を旗揚げするも生活が困窮し10ヶ月で解散。

俳優では食べられていなかったため、26歳の時に宝石鑑定鑑別士の資格を取得し、宝石販売会社の「トキモト」に宝石デザイナーとして入社。

宝石販売会社に勤めていたとき、自由劇場の研究生時代に知り合った柄本明さんに居酒屋で偶然に再会し、が結成した「劇団東京乾電池」に誘われます。

高田純次さんは1ヵ月間悩んだ末に、4年か務めた宝石販売会社を退職し、柄本明さんらが結成した「劇団東京乾電池」に参加。

劇団での収入は月1万円だったそうです。

「劇団東京乾電池」に参加した後もなかなか売れず、宝石販売会社時代に貯めた貯金も1年でなくなり、生活のため、道路工事、キャバレーのボーイなど多くのアルバイトをしていたそうです。

1980年、33歳の時、「劇団東京乾電池」の団員だったベンガルさんらと共にフジテレビ系で生放送されたいた帯バラエティ番組「笑ってる場合ですよ!」に出演。

同年8月、HNKのドラマ「ぼくとマリの時間旅行」に出演しドラマデビュー。

1985年4月から放送された日本テレビ系の「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」にレギュラー出演。

早朝バズーカや奇抜な格好でのリポート、突飛な行動やコメントなどで人気を博し知名度を上げました。

「元気が出るテレビ!!」には番組が終了する1996年まで11年間出演しました。

1988年に出演したドリンク剤の「グロンサン」のCMキャッチコピー「5時から男」話題になり、新語・流行語大賞の「流行語部門・大衆賞」を受賞。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました