田原総一朗さんは滋賀県出身のジャーナリスト。
田原総一朗さんをネットで検索すると前妻、再婚、熱愛などの関連ワードが出てきます。
田原総一朗さんに現在、妻はいるのでしょうか?
子供は娘がいる?
田原総一朗さんのくちゃくちゃとは?
学歴や経歴、若い頃の画像は?
気になったので、田原総一朗さんについて調べてみました。
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田原総一朗の妻とは?子供は?
田原総一朗さんの結婚歴は2回。
最初の結婚は田原総一朗さんが26歳のとき。
結婚相手は叔母の末娘の末子さん。
従妹にあたる人物です。
年齢は3歳年上。
周囲からの反対もあったそうですがが、2人はそれを押し切って結婚しました。
子供は2人の娘に恵まれました。
しかし、娘達が小学生の頃の1975年、妻の末子さんの乳がんが発覚。
長い闘病生活の後、1983年、53歳の若さで亡くなりました。
田原総一朗の再婚
2回目の結婚は1989年。
再婚相手は日本テレビのアナウンサーだった節子さん。
節子さんは2歳年下。
実は田原総一朗さんと節子さんは長く不倫の関係にありました、
2人の関係が始まったのは、1967年、結婚7年目だった33歳の時からです。
当時、節子さんにも夫がおりダブル不倫の関係でした。
そのことは、田原総一朗さんが執筆した本にもかかれており、
「恋愛関係になっていたとはいえ、節子と結婚する気はなく、末子と離婚する気もなかった」
と書かれています。
最初の妻の末子さんが亡くなった後も、節子さんと再婚する気はなかったという田原総一朗さんですが、節子さんの夫が亡くなった3年後、
プロポーズ。
節子さんは断りますが、3年後に再びプロポーズをし、今度は承諾し結婚にいたります。
1989年、田原総一朗さんが55歳の時でした。
しかし、1998年10月、節子さんにもまた乳ガンが発覚し、余命6ヵ月の宣告を受けます。
再発転移を繰り返し、抗がん剤治療を行いながら6年近く生存しますが、2004年8月に亡くなりました。
田原総一朗の熱愛とは?
田原総一朗さんの熱愛は本人の執筆した本で、
「私はいま、熱烈な恋愛をしている」
と書かれていたことです。
当時、田原総一朗さんは80歳。
お相手は高校の同級生で、かつてマドンナだった女性だそうです。
きっかけは同窓会だったそう。
それまでも、年に1度の同窓会があり、会ってははいたそうですが、
「73歳の時、同窓会の場で初めて彼女を誘った。私が二番目の妻を亡くしてから3年経った頃のことだ」
相手の女性も夫に先立たれているそうです。
田原総一朗の若い頃の画像は?
田原総一朗さんの若い頃の画像。
田原総一朗若い pic.twitter.com/eq4ccivPKS
— 素童 (@sirotodotei) June 30, 2016
おそらくテレビ局に勤務していた頃の田原総一朗さんだと思われます。
1981年の田原総一朗、さすがに若い。手にしているのはMGC製コルト32オートだろう。 pic.twitter.com/ID1sR5Vt65
— ナベ (@kzx750f1) June 21, 2015
田原総一朗さんが47歳頃の画像です。
テレビ局を辞めてフリージャーナリストに転身して5年目の頃です。
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田原総一朗 学歴・経歴
名前 田原総一朗
生年月日 1934年4月15日
身長 166cm
出身 滋賀県彦根市
田原総一朗さんは滋賀県彦根市生まれ。
実家は絹糸の仲買業をしていて、比較的裕福な家で育った田原総一朗さん。
戦時中に育った田原総一朗さんは、子供の頃は海兵に憧れる軍国少年で特攻隊員になるのが夢だったそう。
小学5年生の時に終戦。
敗戦後はそれまでに教わってきた軍国主義などの価値観が180度変わったことで、田原総一朗さんは、
「世の中に絶対はない」
「偉い人の言うことは信用できない」
と思い、常識を疑う原点になったそうです。
1953年、滋賀県立彦根東高等学校を卒業
高校卒業後は、早稲田大学第二文学部日本文学科(夜学)に入学。
日本交通公社(現JTB)で働きながら大学に通っていました。
当時は、作家を目指していましたが、文学賞に何度か応募したが入選せず、後に同世代の石原慎太郎・大江健三郎の作品を読み、レベルの違いを感じ作家を断念。
1956年早稲田大学第一文学部史学科に再入学。
1960年に大学卒業。
ジャーナリスト志望だった田原総一朗さんは、大手テレビ局や新聞社など手当たりしだいに受けますが全く受からず、やっと合格した映画制作会社「岩波映画製作所」に入社し、カメラマン助手をつとめました。
1964年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局とともに転職。
入社後はディレクターとしてドキュメンタリーなどの番組を制作。
当時開局したばかりの「東京12チャンネル」は、マイナーな存在であったことを田原総一朗さんは利用し、「過激な題材」を元に、「やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する」手法で話題を呼びました。
1977年1月、42歳の時、東京12チャンネルを退社。
フリーランスとなりジャーナリストの道へ進みました。
大物政治家や当時の話題の人物などのインタビューで知名度を上げます。
1987年から、テレビ朝日系の討論深夜番組「朝まで生テレビ!」放送開始
1989年4月から、テレビ朝日系の報道・政治討論番組「サンデープロジェクト」討論コーナーの司会・出演を2010年に放送終了するまで務めました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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