なぎら健壱さん東京都出身のフォークシンガー、タレント。
なぎら健壱さんはもんじゃ焼き屋を経営している?
息子も芸能人?
なぎら健壱さんの悲惨な戦いとは?
気になったので、なぎら健壱さんについて調べてみました。
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なぎら健壱の息子と孫がいる?
なぎら健壱さんの息子は柳楽詠人さん。
「なぎらえいと」と読みます。
なぎら健壱さんの本名は「柳楽健一」
柳楽優弥(やぎらゆうや)さんカンヌで受賞した時、同じ漢字なので過去には、息子ではないかと言われていたそうですが、読み方が「なぎら」「やぎら」で違うと本人が否定しました。
息子は柳楽詠人さんはブログによれば1979年3月生まれ。
「eito.08」の名前でヒップホップユニットのREMのボーカルとしてミュージシャンをしていたこともあるようです。
結婚して子供もいるようです。
息子さんは浅草で修業し、なぎら健壱さんのプロデュースするもんじゃ焼き屋で経営しているようです。
2019年6月には姉妹店 「創作居酒屋 月とかえるのルフラン」もオープンしました。
なぎら健壱のもんじゃ焼屋とは?
なぎら健壱さんのプロデュースするもんじゃ焼き屋は東急東横線 学芸大学駅から徒歩2分の「下町もんじゃ焼 らくらく」
経営は息子さんがしているようです。
一番人気はもち明太チーズもんじゃで30種類以上のメニューがあるそうです。
経営については、テレビで2013年に紹介された時には月の売り上げは300万円、2016年に紹介された時には、店内が間仕切りになっているため、人件費がかかるので、売り上げが赤字とトントンの間であると話しています。
なぎら健壱の悲惨な戦いとは?
なぎら健壱と検索すると「悲惨な戦い」も関連ワードが出てきます。
調べてみるると、「悲惨な戦い」は1974年1月に発売された、なぎら健壱さんの最初のシングルでした。
大相撲の架空の取組中に力士のまわしが落ち、それが引き起こしたパニックをネタにしたコミックソングで15万枚の売上ヒットを記録しました。
曲がヒットヒットしたことでスケジュールなども決まったそうですが、その矢先に放送禁止歌になってしまったそうです。
理由は、架空の話しであったものの、まわしが落ち、NHKが放送してしまった、国技館がスポットライトを当ててさいまったなどの歌詞で、日本相撲協会からのクレームもあったとされていたようです。
しかし、その後の調べでは実際には相撲協会からのクレームはなく、その前に民放連が自主規制したとみられるようです。
1988年まで放送禁止曲に指定され続けましたが、1990年代になると有線放送で流され、テレビでも一部カットされながらも放送されました。
2006年には山下達郎さんののラジオ番組でフルバージョンで放送されたようです。
なぎら健壱 経歴
名前 なぎら健壱
生年月日 1952年4月16日
出身 東京都中央区銀座
所属 株式会社ルーツ
なぎら健壱さんは東京都中央区銀座生まれ。
父親は宝石箱や貴金属の飾り台を作る職人。
中学時代にギター弾き始め、高校時代にフォークグループを結成。
1970年、18歳の時、日本初の野外フェスティバルである全日本フォークジャンボリーアマチュアとして飛び入り参加しライブ盤に収録。
1972年、ビクターから「万年床」でアルバムデビュー。
1974年1月、エレックレコードからファーストシングル「悲惨な戦い」をリリース。
タレントとしても数々のバラエティー番組に多く出演。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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